WBCで日本優勝という素晴らしい結果になったのは、もちろん大谷選手のようなスター選手もいたのは大きいですが、何より栗山英樹監督の采配やチームメイトへの接し方、栗山監督の人間性がここまでの結果に繋がったとよく言われています。
優勝した後にTV番組に引っ張りだこでインタビューを受けていて裏話などを話されていて話を聞けば聞くほど素敵な監督さんだと思った方々も多いように思います。
かといって栗山英樹監督は、正直言って選手として凄く活躍したスターとは言えずむしろそういう選手からは程遠い選手だったと言えます。しかし、監督としては高い評価を受けているので、必ずしも野球の実力と良い指導者はイコールではないことが分かります。
今回の記事では、
- 栗山英樹監督について
- 栗山英樹の現役時代の経歴
- 栗山英樹の現役引退した理由
- 栗山英樹の最高のチームの作り方
を紹介していきますので、名将栗山英樹監督について最後まで読んでいただくとよくわかっていただけると思います。
栗山英樹監督について
栗山英樹監督は1961年4月26日に東京都で生まれ、幼いころから野球をしてきた元プロ野球選手です。
とはいえ、実は高校くらいからは野球選手ではなく教師を目指していたのですが、大学の最後の最後に教師ではなく野球選手を選択してプロ入りした異色の選手です。
あとの経歴で詳細をお話しますが、実は栗山監督は、選手としては正直厳しく、華が開かず終わった選手と言えるのかもしれません。
栗山監督は、国公立大学出身なのですが、さらに大学教授でもある、そういう経歴がある監督は史上初なのです。
そして監督として才があったのは、過去、教師を目指していたのも大きな影響があるのでしょう。
栗山英樹の現役時代の経歴
栗山英樹監督の経歴をチェックしてみました。
栗山英樹監督は1961年4月26日に東京で生まれ、幼少のころから野球をしていて中学校3年生では地元の野球チームに所属してピッチャーでした。その時には日米大会に出たり、この大会でもMVPを獲得する優秀な選手でスカウトされて甲子園を目指し創価高校へ入学しました。
入学してすぐにベンチ入りし高校3年生では主将でエースでしたが、その後はなんと教育者を目指し東京学芸大学教育学部に進学したのでした。
教師を目指して入学したものの、この大学でも野球部に入学して活躍していて、さらに小・中・高の教員免許を取得したので、卒業後は教師になるつもりだったのです。
選手として2年目にメニエール病を発症し、ここからこの病気に苦しむことになります。さらに右ひじの故障も再発してもうレギュラー落ちしてからは這い上がることができませんでした。
そして120%の努力をすることがプロの世界で生きていくための最低条件であり、それができないのでと引退を決意して、苦しんだ選手生活を終えることになったのです。
その後野球解説者としてテレビやラジオで活躍して、スポーツニッポン専属野球評論家にもなり、さらに東京学芸大学の講師をしつつ、少年野球の育成にも携わっていました。
栗山英樹の現役引退した理由はなぜ?
特にメニエール病は野球現役中はずっと苦しめられていて時には入院もしていたのです。しかし治らず、パフォーマンスもまったく発揮できないので7年という短い期間の現役を終え引退します。
今となればメニエール病や肘が取り返しのつかないほどになる前に決断したことで早くに解説者やいろんなことに取り組めて、監督という自分の一番生きるポジションに早くつけたことが良かったのかもしれませんね。
栗山英樹の最高のチームの作り方とは!?
栗山監督のチームの作り方が素晴らしいということで著書まで出ています。
この著書の大きなポイントはチーム作りにおいて大切なこと。
栗山監督が日本ハムの監督に就任してから5年のチームビルディンぐの軌跡がつづられています。
内容を少し垣間見てみると大谷翔平選手の活躍、中田翔選手の勝負強さ、増井浩俊選手の先発転向、西川遥輝選手の覚醒などはまさに栗山監督の采配、育成、関わり方が成した結果です。
彼らが輝いたのは、監督の存在がかなり大きいようで、栗山監督自身も監督の仕事は選手を輝かせることだと言っています。
まさに一度目指していた教員、教育者の考え方が監督として活きているといえるでしょう。
栗山監督に関しては以下も検索されています、ぜひ参考にして下さい!
まとめ
栗山監督は、一人の選手としての才能は残念ながら発揮することはできなかったのですが、監督としての才能はピカイチでした。
向き不向きがあるということがよーくわかりますね。
監督のために!頑張った選手も多いと聞きますし、監督のおかげで輝いた選手もたくさんいるようです。
教育者のような監督の栗山英樹さんの人柄がすべてを物語っていますね。